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熊事件

 

 熊はもともと気の小さい動物でひとを見てもすぐに手を出すことはありませんでしたが、人間の恐怖心から数々の対策をするようになり、逆にそれが熊の自己防衛本能を刺激し凶暴化したともいわれています。また比較的に寒帯に棲む大型のヒグマは肉の味を覚えると凶暴化するのもいるといわれています。

 沼田地方も開拓が進み密林地帯がなくなったことで、熊は山奥へ移動することとなりました。その移動した熊の足跡が多く見られたことがひとの恐怖心を煽り、外出のさいは石油の空き缶を棒で叩いて音を立てたり、郵便配達人は必ずラッパを吹きながら熊の出現を防いでいました。熊の被害は秋に多く発生し、春から汗を流して作った農作物が一夜のうちに跡形もなく荒らされ、家の周りを徘徊するなどの被害が開拓時代多発しました。

 

【 奔々の小学生、山道で惨殺 】

 当時奔々部落の子どもたちは山道を越えて学校に通学するために、集団で集合し学校へと向かっていました。

 待ち合わせていた集団のなかにいた明地君と山崎君は、みんなの集まってくる時間が待てずにふたりだけで山道を越え学校に向かいました。

 校門につくと4人の女子から宇野さんが山道で白足袋を落としたという話を聞かされたふたりは学校に向かう途中の山道に白足袋が落ちていたこと、それを切り株の上に置いてきたことを思い出し、ふたりは急いで山道へ引き返していきました。

 切り株においてあった白足袋を回収したふたりは学校に戻ろうと歩き出した、そんな矢先に事件が起こりました。突然切り株の影から大きな熊が姿を現し、山崎君より先に歩いていた明地君に襲いかかりました。熊は大きな手で明智君叩きつけると一瞬で笹薮のなかにその姿を消しました。

 恐怖に震えながらも学校に辿り着いた山崎君は、先生に事情を話しました。

 先生は即座に部落に急報、さらに消防団の応援をえて熊狩り隊が編成させました。

 熊狩り隊は現場から転々と続く血の跡を頼りに、笹藪のなかへ足を踏み入れていくと衣服はズタズタに引き裂かれ、内蔵は余すことなく食われてしまっていた明地君の死体を発見しました。

 その後熊は安藤というハンターに仕留められ、約体重200キロもある大熊だった。

 

【 安達で娘さん血だるまの重症 】

 山際で兄と一緒に畑の草取りをしていた妹が、兄が用事のため自宅に戻っている間に熊に襲われた大正初期の獣害事件です。

 兄が馬に乗って畑に戻ると、妹の姿がないことを不安に思い妹の名前を呼び探し始めること数時間、藪のなかで見つけた人影が自分が良く知る妹が血だるまとなった姿でした。

 急報は部落にすぐに伝わり、瀕死だった妹は戸板で市街の大塚病院に運びこまれ一命をとりとめ、翌日には消防組、在郷軍人会、青年団、部落民たちで熊が仕留められました。事件を起こした熊は2歳のオスの小熊でした。

 

【 石狩沼田幌新事件 】

 石狩沼田幌新事件とは大正12年8月24日にかけて北海道雨竜郡沼田町の幌新地区で発生した日本史上2番目の獣害事件となっています。

 ヒグマが開拓民の一家や駆除に向かった猟師を襲い4名が死亡、3名の重症者を出した日の夜は恵比島市街の太子祭りがあり大変にぎわっていました。開墾間もない当時、祭りの余興で執り行われる浪花節や人情ものの芝居は娯楽が少ないため大変貴重で魅力的なものであったため、幌新地区の支線沢や本通筋から20人ほどの一団は揃って祭りに繰り出していました。

 一団は幌新本通に面した沢に差しかかったとき、突然暗闇から異様なうなり声が聞こえてきました。50mほど遅れて歩いていた林謙三郎君(当時19歳)は、その声に驚きながらも目を見開いた瞬間、巨大なヒグマが襲いかかってきました。

 後ろから帯をつかまれた林さんは力いっぱい暴れ、ようやく逃げられましたが着物はボロボロに裂かれ、帯も切れ切れになっており大怪我もおっていました。しかし林さんは「熊だ! 熊だぁ! 」と叫んで一団に急を知らせに走りましたが、そのときにはもうひとりのめの犠牲者が出ていたあとでした。

 ヒグマは一団の先回りをして村田幸次郎君(15歳)を襲い、一瞬で絶命させると幸次郎の兄、村田由郎君(18歳)にも飛びかかり重症を負わせたのち、由郎君を生きたまま土に埋めました。

 その間にパニックに陥った一団は現場から300m離れている持地乙松さん家になだれるように非難しました。

 家では早速炉の火を強めヒグマが近寄ってくるのを防ぐとともに、みな天井裏や押入のなかに隠れ、身を寄せ合い励ましあっていましたが、30分ほどするとヒグマは幸次郎君の内臓を食いながら持地さんの家の周りをウロウロし始め、半開きの玄関を体当たりで打ち壊し、家のなかに入ってきました。

 村田兄弟の父親三太郎(54歳)さんは意を決死スコップで立ち向かうが、ヒグマにすぐ殴り倒され重傷を負い、ヒグマは炉に燃えている火を大きな足でもみ消したあと、部屋の隅で震えていた母のウメさん(56歳)を口にくわえてヒグマは飛ぶように向かいの山の中へ消えていきました。

 ウメさんの「助けてくれ…… 」という声が聞こえたあと、ウメさんのかすかな念仏を唱える声が何度も何度も聞こえたが、暗がりのなかで次第に弱くなり風のなかに消えていきました。

 翌22日呪わしい夜は明け、この事件は村じゅうに知れ渡り、早速恵比島に住む熊撃ち名人長江政太郎さん(56歳)は、猟銃を手に一人で熊狩りに出かけていったまま戻ることはありませんでした。

 24日には幌新と恵比島部落の60歳未満の男子が残らず出動、在郷軍人、消防組、青年団など総数300人あまりの熊狩り隊が出動することになりました。

 突如現れたヒグマは隊の最後尾にいた上野由松さん(57歳)を一撃で撲殺し絶命させ、同隊の折笠徳治さんに重傷を負わすが一命は取りとめました。

 ヒグマは真っ赤な口をあけ立ち上がり次々とひとを襲おうとしましたが、除隊して間もない在郷軍人の放った銃弾が当たったのを機に、鉄砲隊の一斉射撃によりついにヒグマが仕留められました。 

 ヒグマは身長2m、体重200キロの雄のヒグマで、解剖したところ胃袋から大ざる一杯の人骨、未消化の指が取り出されました。結果としてはこの事件で村田幸次郎、村田ウメ、長江政太郎、上野由郎の4人が亡くなり、村田由郎、村田三太郎、折笠徳治の3人が重傷を負うこととなりました。

 この熊の皮は長らく幌新小学校に展示されていましたが閉校に伴い、幌新会館に保存されていました。現在は沼田町郷土資料館に展示してあります。