北海道沼田町

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陸上自衛隊沼田分屯地誕生まで

沼田町の自衛隊誘致

自衛隊誘致運動の発端

沼田町に自衛隊を誘致しようという端緒になったのは、昭和初期から町内基幹産業として栄えた炭鉱三山が一挙に閉山した昭和44年からである。相次ぐ閉山により約1万5千人の人口が8千人余人に激減し、まさに開基以来最大の難局に直面しました。

こうした事態に対処し、昭和44年3月「炭鉱閉山に伴う沼田町振興計画」を緊急策定して町議会に諮り、一方町議会においても「陸上自衛隊沼田駐屯部隊誘致に関する要望決議」を満場一致で決議、さらに同年4月には町内各種団体有志で構成する「沼田町自衛隊誘致期成会」を設立、以降町理事者・町議会及び期成会が一体となって誘致運動を始めました。

沼田大演習場の新設計画

昭和44年以降は、北部方面総監部、同札幌施設局をはじめ、防衛庁長官、陸上幕僚監部、防衛施設局(東京)その他関係先に対して積極的な陳情運動を展開した。その結果、第2師団第4部(旭川)が本町の土地調査を実施、また陸幕施設担当補佐官の来町視察のほか、再三にわたって係官一行の技術的現地調査が詳細に行われた。

かくして昭和48年に至り、4月10日北部方面総監部から沼田演習場設置について申し入れを受け、町はこれを受諾した。このことがマスコミにも大々的に報道され、これを契機に期成会も活気づき「自衛隊誘致決起大会」を開催して町民にアピールするなど誘致運動は一機に盛り上がりました。

実現は容易でない大演習場

当時、演習場設置計画だけが先行し、本町の発展振興に直結する部隊駐屯計画は置き去りにされていた感じを免れなかった。本町の陳情運動の本筋は駐屯部隊の誘致であり、その前提として演習場の早期設置を要望し続けた結果、演習場新設調査費が計上され、昭和49年には本格的調査、50年には補足調査が行われ、演習場としての調査は完了した。

しかし、演習場予定地の所有者である企業の再建計画や保安林の解除問題、さらには「自衛隊演習場等整備特別措置法案」の国会提出などが絡んで進捗しないまま、月日は経過、防衛庁が当初計画の沼田大演習場設置は容易に実現しそうにない情勢となりました。

演習場に代わる自衛隊施設

昭和53から54年頃、防衛庁は演習場に代わるものとして自衛隊施設(弾薬庫)の設置を検討し、数年後には隊員500人程度を駐留させる計画であることが町に伝えられました。沼田町議会振興対策特別委員会は弾薬庫の安全性について調査し、その報告を昭和56年3月の定例議会で行いました。

それには、小規模部隊ながらようやく誘致実現の見通しを得たことは全町一致の運動による成果であるとし、今後この基盤を踏まえ一層有機性をもって当初目標に向かって精力的な運動を望むものである、と述べました。

そこで本町の自衛隊誘致運動は当初の予定通り、今後あくまでもそう登記簿の駐屯部隊誘致を目標として根気欲運動を継続してゆくことになりました。

町有地売却し弾薬庫建設

防衛庁は昭和58年4月、企業が本町に所有する山林約1万ヘクタールの一部を有事即応型の大規模な弾薬庫建設地として買収する方針を固めました。昭和61年1月には340ヘクタールの用地買収で合意を見たものの、結局折り合いがつかずに終わりました。

そこで町では町有地を有償で提供する条件で防衛庁と折衝、昭和61年2月の臨時町議会で建設用地となる町有地約340ヘクタールの売却を決めました。同町有地は市街地から東北に約4キロメートル入った通称石田の沢の奥の丘陵地で、売却価格は立木と一部ダム施設を含めて4億4千百万円でした。こうして陸上自衛隊沼田弾薬庫の着工式が同年10月13日、町民会館に関係者ら150人が参加して行われ、十数年に及ぶ町の自衛隊誘致運動は一応の結実を見たのでした。

町民念願の自衛隊分屯地が誕生

平成2年3月26日、沼田弾薬支処編成完結式及び沼田分屯地の開設式が行われました。また同支処の創立記念式が同年5月20日、同分屯地体育館で開かれ、自衛隊幹部をはじめ衆参国会議員、道議会議員、北空知管内の首長、町関係者ら約300人が出席して行われました。この中で北海道地区補給処長から篠田町長、西森巽名誉町民に、沼田分屯地司令から吉住敏夫自衛隊誘致期成会会長にそれぞれ感謝状が贈られ、誘致運動と自衛隊への協力に感謝の意が表せられました。

こうして全国で158番目、道内では28番目の自衛隊分屯地が沼田町に誕生したのでした。

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